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新体操指導者

田中 琴乃
2009年度卒業

田中琴乃さんは中学3年生の時、 新体操の日本代表強化選手に選ばれたのを機に、 地元大分県から上京し、 二階堂高校へ入学しました。 2年生の時に北京オリンピックへ出場、 卒業後は日本女子体育女子大学に進み、 ロンドンオリンピックヘ出場しました。 決して平坦な道のりではない激動の10代を振り返りながら、 お話をうかがいました。

2006年12月、新体操の日本ナショナル選抜チームフェアリージャパン指導者の山崎浩子さんから「こっちに来ない?」ってお電話をいただいた時、私は後先考えもせずに「行きます!」って応えていました。

その時私は中学3年生で、大分県のクラブチームで新体操をやっていました。その私を「フェアリージャパン」のメンバーに推薦していだだいたのです。

年末までには正式にチーム入りが決まって私は上京しました。当時フェアリージャパンの練習場所は、千葉県の廃校になった体育館を借りていました。1日8時間、週6日の練習が始まりました。私は大好きな新体操に100%打ち込めるということにワクワクしていました。

住むところは体育館の近くのアパートを借りて、15歳から19歳のチームメイト10人で共同生活です。食事も洗濯も全部自分たちで…、と言っても「ご飯炊くってどういうこと?」お米も炊いたこともないような人たちなので、洗剤でお米を洗ってしまったり、唐揚げを揚げている時にボンッって火が上がったり、いろいろ起こりましたけど(笑)。

そんな風にして、3年後の北京オリンピックを目指したのです。でもまだオリンピックに出られると決まった訳ではありません。まずは翌年の8月にギリシャで行われる世界新体操選手権でいい成績を残さなければなりません。それに新体操の団体競技は5人なので、出られるのは10人いる練習メンバーのうち5人だけです。

まるで椅子取りゲームのように、オリンピック出場への5つの席を取るためにグルグル回っていました。私は一番体重が軽かったので、リフトと言って持ち上げてもらうポジションを指名されました。それ以来私は、5席のうち(リフトの)1席だけを見て「絶対にオリンピックに出る!」と思っていました。

中学の卒業式で大分に帰り、「さあ高校どうする?」となりました。東京の高校のことは全くわかりません。同い歳のチームメイトが二階堂高校に行くというので「じゃあ、私も!」とお願いして、お世話になることになりました。

でも練習があるので最初はほとんど通えず、先生方から課題のプリントを送っていただいてそれをやったり、テストの時だけ高校に受けに行ったりしていました。私がたまに学校に行くと、みんな興味津々で机の周りを囲んで質問ぜめにあったり、廊下で「くるっと回って」と言われたり、急に人気者になったようでちょっと恥ずかしかったけど嬉しかった。

高校1年の夏、ギリシャの世界新体操選手権に最年少日本代表として出場しました。結果は団体7位になって、無事オリンピックの出場権を獲得できました。

その頃チームに新メンバーが入って来ました。とてもスリムな人で、コーチから「琴乃の場所を覚えなさい」と言われました。 それ以来、私がやっているリフトのポジションを彼女と2人で争うことになったんです。

チームメートは仲間でもありライバルでもあるので、自分の弱みを見せないよう、歯を食いしばってやっていました。まるでコップいっぱいの水が表面張力でギリギリ保っているようで、いつ溢れてもおかしくなかった。

私たちは毎日体重計に乗って、体重や体脂肪率などを報告しなくてはいけないのですが、そこでもやはりライバルのことが気にかかってしまいます。「彼女より1グラムでも痩せよう」と思い、食事が喉を通らなくなりました。
水もちびちびと舐めるように飲んでいて、高校1年の冬には体重が8キロ落ちて38キロになりました。そしてとうとう大臀筋の肉離れを起こし、練習も満足にできなくなってしまいました。

後から知ったのですが、その時すでにドクターストップがかかっていたらしいです。母にも「帰ってきていいんだよ」って言われていました。母は大分で働いていて、休みのたびに来て、昼も夜も私をレストランに連れて行ってくれるのです。

そしてご飯を「おいしい、おいしい」って食べるので、「なんでそんなことをするんだろう」と思ったら、ある時母が「私はオリンピックには連れて行ってあげられないけど、ご飯が美味しいものだってみせることぐらいはできるかなと思って来ているんだよ」って言われて、私はハッとなって「心配させているんだな。」と思いました。

それから「ちょっと頑張って食べてみよう」と思うようになり、コーチにも付き添っていただいて(一人で食べきる自信はとてもないので)、ほんの少しの量をゆっくり食べるところから始め、少しずつ量を増やしていって、どうにか体重と自信を取り戻していきました。

1年生の冬に、赤羽にナショナルトレーニングセンターができて練習拠点が移りました。宿泊棟が付属していて、栄養管理されたビュッフェと広いお風呂もあって別府育ちの私には嬉しかったです。

練習開始が夕方6時からになったので、高校にも通えるようになりました。私にとって高校に行くことは、一人の女の子に戻れるということで、張り詰めている糸をつかの間でも緩められる大切な時間でした。

朝、新宿駅で友達と待ち合わせて一緒に学校に行き、「今日のお昼何にする?」ってコンビニに寄ってパンと飲み物を買ったり、好きなテレビドラマの話をしたり、そんななんでもない会話や高校での生活が、私にはとても新鮮でキラキラしていました。

実は私、二階堂祭(学園祭)だけは3年間皆勤なんですよ(笑)。出店で焼きそば作ったりして、そんな高校生活があったからこそ、自分の中の張り詰めた糸をどうにか緩めて、また頑張ろうという気持ちで練習にも向かっていけたんじゃないかなと思います。

高校2年生の夏に北京オリンピックが開催され、私も新体操選手として出場しました。予選の演技は2回あったのですが、実は私は2回めはメンバー落ちして1回しか出ていません。結果は予選総合10位で決勝には進めませんでした。

演技が終わった時、太鼓やブブゼラが鳴り響き大歓声の中から、母の声だけが聞こえていました。あそこにいるということはわかるんです。でも私は手を振ることも笑うこともできませんでした。どういう表情で母を見たらいいのかわからなかったのです。

椅子取りゲームで席を獲得して、ずっと夢だったオリンピックには出場できました。でも「全てやり切ったか?」と聞かれると「はい」とは言えません。たくさんの人を心配させてしまったし、お返しもできなかった…。その時私は、「もういちど4年後を目指そう」と思いました。

3年生になって、9月に三重県で世界選手権があって、総合8位、リボンフープで4位という成績を残し、フェアリージャパンはそこでいったん解散となりました。

そして12月に、新しいフェアリージャパンのオーディションがあって、次のロンドンオリンピックへ向けた新メンバーが決まり、私も選ばれました。まずは翌年9月のモスクワ世界新体操選手権に向けて、練習拠点もロシアのサンクトペテルブルグに移り、日本とロシアを行ったりきたりする生活が始まりました。

サンクトペテルブルグのクラブチームでロシア人に混じって、日本チームがマットを借りる形で、ロシア人のインナ・ビストロヴァさんというヘッドコーチの元で練習をはじめました。そして高校を卒業し、4月から日本女子体育大学に進学しました。

インナ・ビストロヴァさんは私をチームのキャプテンに任命して、最初は「できません」って断ったのですが、山崎浩子さんに「あなたらしくやればいいのよ」と励まされ、「あ、私このままでいいんだ」と、スッと心が軽くなったのを覚えています。

「いろんな失敗をしてきた私だからこそ、できることがあるのかも。仲間が楽しく練習場に集まれるようなチーム作りを目指そう」と思い、キャプテンをつとめさせていただくことにしました。そして新しい仲間と一緒に、私にとっては2度目のオリンピックを目指すことになったのです。

[2025.03収録]