「 二 階 堂 魂 」を 探 す 旅

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広田(旧姓 磯貝)博子さん
1962年度卒業(取材時77歳)


私も記憶が薄れて少し定かでないところもありますがお話しします。

陸上競技を始めたのは中学生の時です。今は「全日本中学校陸上競技選手権大会」となっていますが、当時は「全日本中学校放送陸上競技大会」と言ってNHKの放送網を利用して全国一斉にスタートする競技会がありました。当時、私は器械体操をしており、千葉市の大会では優勝もしていましたが、体育の授業での走タイムがよかったので、参加選手に選ばれました。
選手の練習会には中学の卒業生で順天堂大学陸上部の野瀬豊先生がコーチとして来てくださいました。中学校のグラウンドではレーン取りができなかったので、習志野市の順天堂大学グラウンドへ行って練習させてもらいました。大会には200メートルで出場しましたが、準決勝くらいで終わったと思います。

中学の校内マラソン大会でも3連勝していたので、コーチの野瀬豊先生から「オリンピックに女子800メートル種目が復活することになったし、長距離に向いているので陸上競技をしてはどうか。」と勧められ、二階堂高校を紹介していただきました。

器械体操はしていましたが、私は鉄棒が苦手でした。高校に上がると段違い平行棒が加わるので、怖くてできないなと思っていたこともあって、陸上競技に転向することにしました。

二階堂高校は遠いし心配だと父は反対しましたが、母が「人見絹枝さんを育てた学校だから安心できる。」と父を説得してくれました。そんなわけで、人見絹枝さんを追いかける心意気で二階堂高校へ入学しました。

─── 二階堂高校に入学して陸上部に入られたのですか?

そうです。当時の陸上部は全国的にも強くて、部員は200人位いました。新入生も100人近く応募していました。入学して間もなく開かれた入部説明会に参加すると、前列に座っている生徒は皆、全日本中学校放送陸上競技大会のメダリストや成績優秀者ばかりでした。

入部後の自己紹介で私は「オリンピックに800メートル種目が復活したので、それに出たいと思います。」って言ったらしいんです。3年生になった時「あんただけよ。オリンピックに出たいって言ったのは。」と同級生に言われました。

1928年のアムステルダムオリンピックで人見絹枝さんが800メートルで銀メダルを獲得した時、ゴール後に倒れた選手が多かったので、800メートルは女子には過酷すぎるとして競技がおこなわれなくなりました。それが4年後の東京オリンピックで復活することになり、インターハイや国体、実業団選手権大会でも種目に取り入れられました。

─── 当時の学校はどんな様子でしたか?

校舎は古い木造で、歩くと鴬廊下のようでした。制服はチュニックでとても好きでした。今もチュニックを復活してもらいたいと思っている一人です(笑)。体育館は今と同じ場所の建物です。プールは今の会議室がある場所にありました。

初代校長の二階堂清寿先生の授業を受ける機会はありませんでしたが、毎週月曜日に全校生徒が講堂に集められ清寿先生の講話がありました。清寿先生が「正座」と号令を掛けられて全員で黙想した後に、先生から二階堂の伝統とか、学校の発展や女性の地位向上に苦労しながら努められたトクヨ先生が話されていたこと、特に「女性らしく、礼儀正しく、人としてどうあるべきか」と言うようなことについて何時もお話しがありました。
私たちは「今日は何分で終わるかな?」「足が痺れて練習ができないよ」などと不平を言い合っていましたが、不思議なことに先生が言われていたことは、何となく覚えていて、「あ、あの時に言われたことはそういうことだったんだな。」と思うことが今でもあります。

私自身も今、若桐会の会長として、入学式などで挨拶させていただく時に「トクヨ先生は、そういう風におっしゃっておられたそうです。」って毎年お話ししています。それは清寿先生の受け売りなのですが、その伝統を引き継いでいきたいと思っているからです。

─── 陸上部の練習はどんな風にやっていましたか?

一年生の時は上級生のスパイクの手入れとマッサージと道具持ちですよ。先輩は厳しくて、私たちが準備にちょっと手間取っていると「何モタモタしてんの!」って言われたりね。でも意地悪だとは全然思わなかったですよ。叱られる度に「申し訳ありません!」って謝っていました。

二階堂高校のグラウンドはテニスコートがあるだけなので、京王線に乗って烏山のグラウンドへ行きました。当時からトラックと寮は烏山にあって、清寿先生も今の日女体のATMがある辺りに住んでおられました。京王線のストライキが何回かあった時には明大前から烏山まで歩いて行きました。

烏山のトラックはアンツーカー(赤土)じゃなくて砂利だったので、練習前に先ず地ならしから始めなければいけません(それも上腕のトレーニングにはなりましたが)。3時頃にグラウンドに着いて、走り始めるのは3時半過ぎで、練習には3時間ちょっとかかりました。

雨の日は、学校で階段を昇降したり、廊下を走り回ったりしながら、できるところで腹筋、背筋、腕立て、ウサギ跳びなどをしていました。また、羽根木公園までジョギングすることもありました。

─── 練習はきつかったですか?

はい、それはもう。長距離の練習で、200メートルのインターバルを20本とかやると、食べた昼食を吐きそうになるんです。ですから私は3時間目の授業が終わると早弁をしていました。当時はそんなことも大目に見てくれていたので、記録に繋がったのかなって思っているんですけどね。

夏合宿は静岡県の草薙競技場で、冬合宿では鎌倉海岸の砂浜を走りました。
数多く入部した一年生部員も学年末には20数名になっていました。2年生になって、徐々に試合にも出られるようになり、秋田国体では3位になりましたが、やっぱり「来年のインターハイで勝たねば」との思いが一番で、授業そっちのけで陸上に全てをかけていました。
国体参加で1週間ほど欠席したので、各科目の先生から職員室に呼ばれ「授業はこういうことをしたからね。」と教えていただきました。競技会参加の度に先生方にはお世話になりました。

─── インターハイに出場してどうでしたか?

3年生になって、大分県のインターハイ(第15回大会)に行き、新種目の800メートルに出場しました。その時、清寿先生から「散るもよし、散らぬも嬉し、山桜」との電報をいただき、私は「よし!頑張ろう!」と校長先生に喜んでもらいたい一心で走り、トップでゴール(2’24”3)することができました。
チームも総合優勝しました。二階堂高校は前年のインターハイでも総合優勝していたので、二連勝となりました。大会後、東京駅から真っ赤なオープンカーに乗って都庁へ挨拶に行き、それから明大前までパレードをさせていただきました。このパレードはオリンピック後援会が段取りしてくださいました。
その時の800メートル優勝カップが人見絹枝杯で、それを見た清寿先生は涙ぐみながら「トクヨがきっと喜んでいると思うよ。」とおっしゃいました。

─── 決まったコーチはいらしたんですか?

はい。ハードルの村上正先生と法政大学から投擲の吉田丈二先生がコーチとして来てくださっていました。吉田先生には在学中は勿論、卒業後もよく面倒をみていただきました。

今思うと、二階堂の練習で優れていたのは、練習後に必ずクールダウンとストレッチをしていたことですね。それは、海外試合経験のある陸上部の高島節子先輩や石川ヤソコ先輩が合宿に来られて伝授して下さいました。当時から二階堂は先端をいっていたと思っています。

─── 陸上部以外に強かった部活は?

水泳部も強かったと思います。

─── 寮生活でしたか?

父から「嫁入り前の娘が他で寝泊まりすることは罷りならん」と言われ、千葉市の自宅から通学しました。当時の新宿駅は木造で狭く、通学時間に駅へ着くとホームに居る大勢の先輩たちに「おはようございます」と何度も挨拶し続けなければならなかったので、朝5時の電車に乗って早めに登校して自主朝練をしていました。

あの頃の総武線は未だ快速電車は在りませんでしたので、烏山まで片道3時間くらいは掛かったと思います。ですから夜10時前に帰宅したことはありません。そんな感じでもう、在学中は全てが陸上部活のような状態でした。

─── 高校を卒業後してからは?

在学中に東京オリンピックの強化選手に選ばれたので陸上競技を続けたいと思い、実業団へ行くことを考えました。当時、私を可愛がってくださっていたハードルの依田郁子さんがいらしたリッカーミシンへ行きたいと思ったのですが、長距離の指導者がいないからと断られてしまい、長距離指導者のいた日立製作所は、遠方だとして父に反対され断念しました。

そんな中、短大コーチでドイツ留学中だった山本邦夫先生から「ぜひ進学をして欲しい」とのお手紙をいただき、進学することにしました。色々な大学から誘われましたが、清寿先生をお慕いしていたので日本女子体育短期大学へ進学しました。

─── 清寿先生のどこが好きでしたか?

先生が俳句を詠まれる姿をカッコ良いなと思っていましたし、何時も「元気か?」と気に掛けていただいて…。大会があって良い成績だった時には月曜の集会で「立ちなさい」と名前を呼んで紹介してくださいました。そんな優しいところが好きでしたし、先生のお気遣いは励みになりました。

日曜日は烏山グラウンドで自主練していることが多かったんですが、ご自宅がグラウンドに隣接していた清寿先生は何時もグラウンドの草取りをして下さっていました。ご挨拶すると「練習が終わったら牛乳を飲みに来なさい」と必ずおっしゃって、ご自宅に伺うと冷蔵庫から牛乳を取り出してご馳走して下さいました。そして「千葉まで帰るのか、大変だな。気を付けて帰りなさい。」と気遣ってくださいました。

─── 短大に進まれて?

短大進学直前の2月に行われた陸上競技連盟主催のオリンピック強化合宿で右半月板を損傷してしまい、入学して半年間は殆ど練習できませんでしたので、オリンピック代表枠からも外れてしまいました。コーチの山本邦夫先生からは故障中も親身に指導していただきました。

合宿は1年生の時は伊豆諸島の式根島で、2年生では松本市の生安寺(高校陸上部のキャプテン旭さんのご実家)に宿泊して行いました。

徐々に練習を再開し、2年生の春に開催された第19回新潟国体で優勝しました。その結果、オリンピック後に行われた日米英親善国際大会の選手に選ばれ、その大阪大会に800メートルで出場しました。日本選手がみんな日の丸のユニフォームを着ている中、私だけが日女体のNのユニフォームでした。

競技開始時に米国の選手が審判と話をしていてスタートが少し遅れていました。私は何が起きているのか分からず「何してるんだろ?」って思っていたのですが、レース直後に私の後からゴールしてきた大柄の米国選手が駆け寄ってきて「I’m sorry, I’m sorry」と抱き付いてきました。私は苦しいだけで、わけも分からずにいましたが、翌日の新聞に米国選手は身長の低い私を見て中学生がレースに紛れ込んでいるのではないかと審判に確認していたと載っていました(笑)。

東京オリンピックには出られませんでしたが、このレースで800メートル金メダリストのアン・パッカーと一緒に走ることが出来ました。

─── 短大から大学に進まれたのですか?

そうです。私が短大を卒業した年に4年制の日本女子体育大学が認可されたので、体育学部3年に編入しました。ですから私たちが学部の1回生になりますね。確か30~40人位が編入したと思いますが、陸上部からの編入は私一人でした。

大学の授業は烏山で受けましたが、当時は校舎が少なく、今の本部(学部)と保育科の北校舎(人見絹枝像の後の建物)だけでした。

大学ではコーチの山本邦夫先生が生理学の山川純先生に私の指導を頼んで下さったので、生理学的な分析に基づいた指導をしていただきましたし、山川先生のご実家に泊まって菅平での高地トレーニングもさせていただきました。山川先生のご指導も受けられたお陰で、3年生の7月にあった実業団・学生対抗陸上競技大会で800メートルの日本記録(2’11”18)を出すことができたのだと思っております。

また、生理学の講義に来られていた東大の猪飼道夫先生から「身体を鍛えることと精神面の強化は50%50%。大和魂とか精神論は良くないと言われるが、精神論は決してマイナスではないし必要なことです。外国のトレーニングセンターには日本式の座禅の部屋もあります。」と肉体面だけでなく精神面も大切であることを教えていただきました。

─── 大学を卒業されてからは?

大学卒業の年に我孫子二階堂高校ができたので「体育教師として行かせて欲しい」とお願いしたのですが、清寿先生から「一回生を何人か助手として残したいので君も残りなさい。」と言われて、大学に助手として残りました。

大学を出た年に1500メートルが種目に入ってきたので、私も千葉県選手権で1本だけ走りました。それと同時期にホノルルマラソンでゴーマン美智子さんが走り始めて、女子もマラソンをという流れになりました。私は膝を痛めてしまったのでマラソンに転向することはできませんでした。今でも当時の新聞記者の方たちに会うと「磯貝さんがマラソン走ってたら面白いことになったのにな」と言われます。競技者生活は大学を卒業して2年後に終えました。

助手2年後の任期切り替えの時に山川先生から「川崎市の関東労災病院からスポーツトレーナーの求人が大学にきているけど、行ってみない?」と言われ、二つ返事でお受けして転職しました。ですが、最初の1年間は包帯巻きしかさせてもらえませんでした。

病院に掲示されていたパラリンピックの写真を見て私はパラリンピックを初めて知りました。脊髄損傷の入院患者さんの多くは工事現場での事故で受傷されていて、自分たちもトレーニングを積んでパラリンピックに出たいと言われていました。その言葉を聴いて私は障害者の競技に興味を持ちました。

院長に「障害者の陸上競技トレーニングをさせて欲しい」と申し出て許可を貰い、週3回、脊髄損傷の患者さん50人位に集まってもらい、平行棒の中での立位訓練からトレーニングを始めました。病院の近くに法政大学のグラウンドがあって、二階堂高校のコーチだった吉田丈二先生がいらしたので、トラックをお借りして車いす選手のトレーニングをさせていただいたりしました。

その内に、千葉県の白子町に開設した労災リハビリ千葉作業所へ関東労災病院からも患者さんが入所された関係で、施設から男子車いすバスケットのコーチをして欲しいと頼まれ、2年半ほど毎日曜日にコーチをしました。尤も私はバスケットのことは殆ど知らなかったので「とにかく速く走って球を取れればいいんだろう」っていう程度のコーチでした。

白子町は海岸沿いなので、砂浜を車いすでひたすら走らせました。午前中はだいたい砂場や道路を走り、午後からボールでの練習を続けました。その後、チームは強くなり7年後の第5回、翌年の第6回の日本車いすバスケットボール選手権大会のチャンピオンになりました。

私は、練習の合間に選手の部屋を回り整理・整頓をチェックして「部屋が片付いていなければボールに触れさせない」ことにしていましたので、試合のために宿泊した都の青年会館の職員から「千葉のチームの部屋はキチッとしている。」と褒められました。そういうところは二階堂で培われたもので、やっぱり大事ですね。

結婚を機に関東労災病院から八王子市の重度身体障害者更生援護施設、多摩更生園へ転職しました。その後も幾つかの福祉施設へ転職しましたが、パラ陸上には関わり続け、1988年のソウルパラリンピック、1996年のアトランタパラリンピック、2004年のアテネパラリンピックには女子陸上競技コーチとして帯同しました。

こうして長い間活動できたのは、山本先生は勿論、特に生活面や科学トレーニングのアドバイスをしてくださった山川先生、そして高校・短大の陸上部の仲間たちや大学のクラスメイトなど、多くの方々に支えられ応援していただけたからだと思っており、心より感謝しています。

─── 今年の夏のパラリンピックはどうされますか?

テレビで観戦させていただくつもりです(笑)。

[2021.05 収録]